存在意義ってやつがあるとすれば、それだけでいいのだ
それだけで、存在する意味があるのだ。
生きている意味がある
生きてても、いいよってこと
逆にそれがなくなれば、今風に言うと消去されてしまう
誰に?
さあ・・・誰かに・・・
神様とでも言っておこう
すべからく、人に限らず、会社でも、組合でもそう、何らかの組織でも、イベントでも、何でもそう・・・
その環境に耐えられないと判断されたら、近い将来に来るべく環境と言ったほうが正確だろう、耐えられないと判断されたら消されてしまう。
でも、それはそのほうがいいと、そっちの環境のほうがいいと判断されたから・・・
人だったら、死んでしまう場合は、あの世というものがあるのかどうか、行ってみたことがないから解らないが、そっちのほうがまだ、適していると判断されたということだろう
組織だったら、この世の中には不必要だと判断されたことになる。もしくは、別組織にしなさいということ
そういうことが、黙っていても身の回りに起こる。これがしょっちゅう、けっこう起こる。
そういう風に物事を捉えてみると、面白いようにその条理というか、定理というか、その道筋で起こっている
人の死というものをそんな風に捉えるくせが、拙にはある。
あんなにいい人が・・・という人でも必要ないということなの?
その場合は、必要がなくなったのではなく、その死は、誰かのためと言ったほうがいい
誰かが、より輝くため、如いてはその人が、より世の中の役に立つことになるからということ
もしくは、もう一つある。それはこの世に人の命の数に限度があり、これ以上増やせない場合、次の命のために交代させらてしまう場合である。
生まれ変わりというやつだ
よく見ていると、亡くなった人の廻りで、親戚とは限らないが、必ず新しい命の誕生がある。
それは、その人の生まれ変わりである。
人の場合はこの3つくらいかな
組織の場合、長く続いている組織であれば、それは世の中にとって必要な組織だということである
役が終われば無くなってしまう・・・というのがこの条理
無策でもいいのだ、世の役に立つことだけを信じて、不断の努力をしている・・・これだけで何百年も続く
経済の浮沈はどうでもいいことなのだ
役に立つと判断されれば、それ相応に、その規模になる
経済的にも、その役割なりに大きくなったり、小さくなったりする
それを、お金がいっぱい入ったら、個人的にだけ使うんだと判断されたとしたら、入ってくるものも入ってこない
個人でいいように遊んでいるように見える人でも、絶対にそのことが何かの役に立っているのだ
もしくは、役に立つことをこれから発信するための予兆として、その行為が必要なのだ。
こういう場合は結構大変である
よく起きるのが、生死を彷徨うくらいの事故だったり、大病だったりする
これを乗り切る生命力というが、そうではなく、これに耐えられると、次の世界が待っている
その予兆としてお決まりのようにこういうことが起きるのである
よく大病すると、人生に対する考え方が変わり、その後に大成するというやつである
これもよく聞く話だ
世の中ってのは、こういう風に考えると結構うまくいく
というか、波の乗り方がうまくなる
精神的に楽になる
海なのだから波はある
世の中、波のないところはない
いつも凪ばかりではないことは解っていて、かなわぬ環境を望んでしまう
感性とはこのことだ
感性を磨くとはこういうことだろう
感性を大事にしない風潮になってしまっている
頭ではなく、感じることが大切なのだが、心だけで感じるばかりでは、もうちょっと・・・
感性とは、心で感じて、頭で処理し、もう一度心で行動する
それには頭と心、両方とも鍛えなければならない
修行とはこういうことなのだろう
この世に生まれたからには、必ずこの修行がある
修行の中に人生がある
この修行がいやだと感じたら・・・アブナイぞ~~~ チャンチャン
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