それが、拙の憂鬱の根本的な原因である。
人は、叱るということができるほど、出来がいい。
どんな人に対しても、叱れるのであれば、相当な人物であろう。
大抵の人は、自分より下位と思う人には、居丈高になる。
言動、態度に必ず現れる。
なので、下位の人には叱ることが出来る。
下位の人は、叱られながら、成長する。
これは一般的に善しである。
しかし、同等かそれ以上の人に対して、叱るということが出来るかどうか。
これができる人は、君子である。
君子は憂えず懼(おそ)れず
司馬牛曰く「憂えず懼れざる、斯(すなわ)ちこれを君子と謂(い)ふか」と。
子曰く、「内に省みて疚しからずんば、夫(そ)れ何をか憂へ何をか懼れん』と。
よく反省して、言動に疾しいことがない日常を送るということは、なかなかどうして至難の業であろう。
叱ると怒るとは、別物である。
怒るは誰でもできるが、叱るは難しい。
似て非なるもの。
私心がないもの、その人の為と思う気持ち、そして、知性が必要なのが、叱る。
叱っているつもりでも、感情に任せていたら、怒りになる。
ここが難しい。
感情がない人などいない。そのエネルギーは感情が先か、知性が先か・・・
感情が先になければ、エネルギーが発生しないのである。
そのエネルギーを、私心なくして、理性に換え、
そして、そのエネルギーの量を維持したまま叱らなければ相手に通じない。
そしてもう一つ、怒りが問題である。
野放しの怒りが、世の中に充満している感がある。
諸貴兄姉氏の周りにも、ありませんか?
一番の発生元が自分だったり・・・・
怒りとは、自分に対する怒りが大元だろう。
それを、人は生きていきやすく、他人に向ける性質がある。
怒りを、他人に向かないようにする。
それには、自己啓発の勉強が一番。
勉強なくして、暮らしやすい環境は出来ない。
感情を上手にコントロールできる人、これこそ、君子。
内に省みて疚しからずんば、夫(そ)れ何をか憂へ何をか懼れん
である。
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