踏ん張り時ってあるのだ。
これは、絶対に覚悟を試す為に天が与える試練である。
ここで踏ん張れずに脇道に行くとこれがまた、とんでもない回り道になる。
近道などない。
とりあえずと思うこと自体が、とんでもない脇道である。
先日の人間学研究会でもテーマになったのは、「極める」だった。
「究める」「窮める」とも書く。どれでもいいようである。
おそらく、漢字の生い立ちから言えば、どれでもよい訳ではないと思うが、国語辞典にはそう書いてあった。
辞書の一番上に書いてあったから、一般的には「極める」かもしれない。
この意味をみんなで言い合った。
拙は、余計なことをしない、と答えた。
したくなること、出来る事、たくさんあるはず。
それをあえてしない、のである。
CANNOTとDO'Tとは違う。
やろうと思えば大抵のことはできるだろう、仕事になればなおさらである。
しかし、出来る事であってもあえてしないのである。
得るは捨つるにあり・・・捨我得全(しゃがとくぜん)
どこかで聞いたフレーズがふっと頭に浮かんだ。
論語だったか、いやなにか他の中国古典か・・・と思っていたら、なんと、倫理法人会の万人幸福の栞、第12条であった。
拙はこういったことが、天啓と思っている。
何気なく口に出したこと、その時に廻りで見えた景色、聞こえた声、音・・・・
そういったもので命運を占う。占うというと変かもしれないが、吉凶を予測すると言ったほうがいいだろう。
ま、占うことになるか・・・日本人には占いというと女子供の専門分野のように聞こえるが、
中国古典でも易経は、五経のひとつでもあるし、これが結構学問としてすごいものらしい。
今後のお勉強の一つに面白そうである。
そういったことが好きな性格だからかもしれないが、迷った時、悩んだ時に何かふっと浮かんできたことや、現れたことで自分の行動を占うのである。
今が踏ん張り時であることに間違いはない。
この時こそ、極める行動をとる。
得るは捨つるにあり・・・
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