全てが偶然ではない。
必要なことが必要なタイミングで起きる。
全ての出来事が必然だとしたら、出来事一つ一つに意味があるはず・・・
その意味は何だろうか・・・
そう考えると人間って、けっこう都合のいいほうに考えがちになる。
悪いほうには考えたくない。
これを楽観主義というのかもしれない。
楽観主義とは決して、何もせずに都合のいいことばかりが次々に起きていくだろうと思うことではないし、何も考えもなしに行動することでもない。
起きることすべてを受け入れて、そのことに何か意味があり、何者かが啓示をシグナルとして発信している・・・そう思うことである。
感受性が豊かでなければならない。
ぼうとしてたんでは、せっかくのシグナルは受け取れない。
このシグナルにはいろんなものがある。
病気もそうだ。その兆候を受け取れないでいると、大きな病気にもなる。
怪我もそうである。
その前に必ずシグナルは来る。
廻りの人が病気になったり、怪我をしたりすることも重要なシグナルである。
場合によっては亡くなることもある。
晴れのシグナルでは、結婚とか出産とかもそうであろう。
筆者は実は、出産と死とは同じシグナルと思っている。
なぜかはよくわからない・・・でもそう感じている節がある。
小さなことでは、朝、小鳥のさえずりなんかもそうである。これは吉兆である。
賑やかな子供たちの笑い声、これも吉兆である。笑顔、笑い、これはいい。
人と人のエネルギーの交換、会議なんかで議論沸騰する。これも占える。
後味感がさわやかな時は吉兆、ドロドロ感が残るようではよくない。
だから、正しい人間性を発揮することが肝要である。
それには、育ちが大きく影響する。育ちが良いとは、何も裕福な家庭のことではない。
その人間性が正しく伸びているか、これが問題だ。
正しいとは、この線で止まれ、と書く。
一・・・これに、止まれ。このように書いて正しいと読む。
だから、小学1年生の運動会は線だらけ・・・だそうな。
人間、規制を付けなければ正しく生きられないのだ。
正しい規制、これを規範という。
規範ができてこそ、後は自由に発想してよい、ということになる。
これこそ規範教育・・・昔の日本はこれだけだったそうな。
いつからか、規範などということがなくなってきた。
いや、あるのだが、重要視しなくなった。
小学校に入ると前へならいを徹底的に教わったものだが、今はどうなのだろうか・・・
素早く、ちゃんとできるまで、何回も何回も、前へならいをする。
これが規範教育の始まりだったような気がする。
その前に、頂きます、ごちそうさま、おはようございます、おやすみなさい・・・挨拶がある。
返事がある。ハイとハッキリ大きな声で返事しなさいと言われる。
大人になればなるほど、返事をしない・・・
規範が芯にあると、規範に触れると思い出すのだろう。
その心地よさが・・・
しばらく休んでいるので、今週は倫理のモーニングセミナーに出よう。
そうか、正しい規範に触れると気持ちよく感じる、だから、朝早くからあんなに集まるのかもしれない。
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