しばらくぶりに、モーニングセミナーに行ってきた。
6時には着いたから、役員朝礼から参加した。
これでも、幹事になっている。
知らないうちになっていたが、筆者で大丈夫だろうかという思いが少しあるが、ま、慣れてしまっていた。
そう、なんとなく慣れてしまっていた。
ここに来ると背筋が伸びてくる・・・
3か月ほど前に、進行係というのをやらされた。いや、やらせていただいた。
初めのうちは間違いだらけだった。
そんなに難しい内容ではない。
これが緊張するのか、間違えるのだ。
それでも、なんとなくうまくいくようになった。
で、その後は忙しいという言い訳もあって、しばらく休んでしまっていた。
昨日、久しぶりに出席したら、進行係をまた、仰せつかった。
あ、いいですよ・・・多少の自信もあった・・・これがよくない。
一度やったからうまくいく・・・過信というか、なめていたというか、とんでもない・・・
順番は間違えるは、人の名前は間違えるは・・・・・とほほ・・である。
間違え出すと頭の中が真っ白になる。
そうすると今度は自分でも予想しない行動をする・・・
照れ笑いというか、顔は真っ赤になっているのか、青くなっているのかよくわからないが、顔は笑みをこぼしている・・・と思う・・・
照れ笑いというやつだろう・・・恥ずかしい限りだった。
で、恒例の食事の後の一言で、これまた、恥ずかしさのテレ隠しで、笑いながらお詫びした。
なんで、こんな行動を取るのか・・・後で反芻して、さらにコッ恥ずかしくなる。
傲慢というかなんというか、バカにしているように映るだろう・・・
こういうところに育ちというか、性格が出るのだ。
そう思うと余計恥ずかしい。
と同時に、申し訳ない。
隣にいた御意見番のSさんが、進行がちゃんとしないと全体が締まらないものになる。とバッサリ切り捨てた。
切り捨てられるとこれが以外とありがたく思えてくる。
Sさんは苦言を呈することがよくある。昨日の矛先は、違う人に向けられたが、もちろん筆者の進行ぶりにも及んだ。
しかし、その言葉にはやさしさが溢れている。
ズバリ、急所を突くが、その後を期待する優しさがある。
切られたほうは、うれしくなるかもしれない。
だからこそ、切られると恥ずかしさがこみ上げてくる。
昨日は切られる前に、恥ずかしくなっていたが、余計に・・・
来週は、リベンジしよう。
どこか、なめている自分がいる。
こんなことしたって何になるという心がどこかにあるのかもしれない。
そう思っているうちは、うまくいかないのかもしれない。
朝早くからいい大人が、集まって、歌を歌うところから始まるのである。
これがまた、大きな声で歌うのだ。
挨拶も又大きな声で、礼もキチッとする。
知らない人は、なんかとんでもない宗教かと思ってしまうかもしれない。
しかし、どこか、心の中で、いつもちゃんとしなくちゃ・・・という思いがあるのではないだろうか。
人としてちゃんとするということである。
ちゃんとしている人は、表に出る。表れる。
週に一度くらいこういう訓練をしなくちゃ、ちゃんとする機会なんてそうそうない。
だらだら、だらだら、また一日が過ぎていく。
家に帰れば疲れたとばかりに、ビールを飲んで、ダイエットに多少の罪悪感を感じつつも、ま、いっかと、ついつい1杯が2杯になり3杯となって、だらしなく、横になる。
お父さんは疲れているんだから、とばかりに・・・
これじゃ、リバウンドは当り前だし・・・
どこか、背筋の伸びる機会がないとダメになってしまう。
仕事でも、これでも一応、会社ではトップであるからして、誰も文句は言わない。
いや、うちの場合はけっこう言われるケースはあるが・・・
でも、どこか傲慢になっている。
傲慢はもともと持っているから、これがあまり出てくるとよくないと思っている。
週一回のモーニングセミナー・・・ここが、自己を律する時間でもある。
そこに心地よさを感じているのも事実だ。
でもどこか本気になっていない自分もいる。
これが、いざという時に出てくるのだ。
たかが進行係、されど進行係・・・である。
きちっとやれねば、申し訳ない。
皆さんは真剣に取り組んでいる。
これでもかというくらいに、見事な進行をやってみたい。
来週はそんな決意で臨もう。もう一度進行をやらせていただこう。
そうやらせていただいているんだ。
その感謝が足りない。
ううううううう・・・・・再チャレンジである。
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